清水港の擬人化ご当地キャラクター七海波音ですっ⚓
なんと4年ぶりくらいの記事更新!!www
この【ぶらっと清水】とついている記事は清水をお散歩しながら作っていきますっ!
一緒にお散歩して色々教えてくださるのはフェルケール博物館の椿原(ちんばら)さんです!
よろしくお願いいたします!
ぶらっと清水について
みなさん、現在エフエムしみずマリンパルにて、毎週木曜日AM10:00〜放送中の
「ぶらっと清水」聞いてますか〜!?
なんとわたしも毎週出演中です!
そして地元清水の方でなくても、サイマルラジオで以下よりリアルタイムで聞けますよ♪
さらに、聞き逃した方もSpotifyにも放送翌日の10:00にアップされますので
こちらのプレイリストからスマホのSpotifyアプリを入れてなくても聞けます!
今日はタイトルの通り、
清水港と茶の輸出、静岡鉄道との関係について書いていきます!
上記のプレイリストから聞いても、同じ内容が聞けますよっ♪
まずはフェルケール博物館からお散歩スタート!
さぁこの写真、見てください!
茶箱のラベルが壁一面に・・・
すごい昔のデザインなんですが
令和時代の今見てもオシャレですっ♪
しかもなんと、よくあるレプリカではなく全て本物ということ・・・!
これは、この蘭字の茶箱ラベルのデザイナーさんの子孫の方々が今も静岡市に住んでおり、寄贈いただいてこのような素晴らしい展示ができているようです!
静岡はいつからお茶が有名なの?
静岡は今も日本一の茶産地として有名ですが(最近は鹿児島に抜かれることもあるけど・・・)江戸時代、今から180年くらい前には既にお茶で有名だったんです!
その有名なお茶を日本全国に販売するため、
静岡の山の方でお茶を生産をして、安倍川を下り、今の浅間神社や駿府城の近くで
「製茶」といって飲めるお茶に近いものを作りました。
そこでできたお茶を牛に乗せて清水まで持ってきて、清水港からお茶を積み出していました。
なので、既に当時には清水港はお茶を積み出す港として知られていたんですっ!
だからフェルケール博物館には茶箱とラベルの本物が展示してあるということです!
この茶箱ラベルはどんな人がデザインしていたの?
この展示ラベルには
・大正時代のもの
・昭和20年代から30年代に作られたもの
の2種類があるようですっ。
古い方のラベルについては「木版画」といって浮世絵のような版画で作られたものなんですが、これはお茶の工場の中にこのラベルを作る人が住んでいて、その人たちがデザインからなにからやっていたそうです!
そしてその子孫の方々が今も静岡に住んでいて、こうして寄付をされているとのことですから、地域の歴史がしっかり紡がれている感じがしてとても感動します✨
この茶箱たちは清水港から一体どこへ向かっていった?
この質問をしたら椿原さんに「非常に良い質問ですよね」って褒められました!笑
最初は清水港から船に乗せて一旦横浜に持っていき、
そこからアメリカに向けて輸出をしていました🇺🇸
そして明治39年から清水港から直接アメリカに向けて輸出できるようになります。
フェルケール博物館に展示してあるのはそれくらいの年代に実際に運ばれていた茶箱とのことです!
よーく見ると「薔薇の花」「アメリカの先住民族」が描いてあったり
いろんな面白いデザインがあります。
ぜひフェルケール博物館で実際に見てみてくださいねっ!
清水で育てたお茶を運んでいたの?
もちろん当時も清水で良質なお茶はたくさん作っていましたが、
静岡のメイン生産地で最もお茶が取れたのは安倍川の上流、
足久保でしたので、足久保産のお茶が「静岡のお茶」として知られていました🍵
そしてそこからずっと安倍川を下って、浅間神社の南辺りで引き上げていました。
それを運んで当時も現在も「茶町」と言われるエリアで製茶をして、
東海道で運んでいくという流れでした。
ちょうど、茶町が安倍川と東海道の間くらいにあったので、
ここが製茶のまちになっていったようです!
(地図で見るとよりわかりやすいです♪)
今も製茶のまちとして残っているのがすごいですよね!
江戸時代の当時にはここで製茶されたものを、江戸や横浜まで運んでいたようです。
もちろん重い大量の荷物を運ぶには船が便利⚓
ということで牛の背中に載せたお茶は清水港まで運んでいきました!
これは先述したアメリカへの輸出が横浜経由ではなく、
清水港から直接輸出できるようになると、
横浜から沢山の商館がこの茶町に引っ越してきて、
その商館でお茶を集めて製茶をして静岡から清水へ運んでいくようになりました。
静鉄こと静岡鉄道、誕生へ!
清水港からの茶の輸出が盛んになってくると、
牛車より汽車の方が大量に早く運べるということで(当たり前ですが)
茶を清水港まで運ぶために敷設されたのが我らが静岡鉄道です!
これが明治41年のことでした。
そしてお茶を運ぶためにできた鉄道の人を運ぶ部分、
当時は一部だったものが、現在は人を運ぶ鉄道として
わたしたち静岡市民の暮らしをさせてくれてるんですね〜!
そう考えると、やはり清水港なくして静岡の茶産業も育たず
静岡の茶産業なくして清水港も育たず。
そして清水港なくして静鉄も育たず
静鉄なくして清水港も育たず。
清水港なくして七海波音も存在せず
七海波音がなくても清水港は存在する。
という悲しいオチになr
やはりみんな七海波音が大好きってことですね!
それでは次回もまたぶらっと清水の記事、お楽しみに〜!
静鉄が元々お茶を運ぶためにできた鉄道だったなんてびっくりですね!