清水港の擬人化ご当地キャラクター七海波音ですっ
年の瀬も迫って今更な感じもしますがっ
2018年は明治維新から150周年の年でしたねっ!🐟🐟🐟
明治元年の清水港といえば
清水次郎長さんも深く関わってる【咸臨丸事件】が有名です
以前、壮士墓の記事で少しだけ紹介しましたが
もう一度しっかりまとめておきたいと思いますっ😺
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咸臨丸について
咸臨丸は江戸幕府海軍が造営していた軍艦ですっ⚓
絵画や図面資料はたくさん残っていますが
150年前ともなると写真は無いみたいっ😿
洋式のスクリューを装備した軍艦としては日本初だそうで
当時の最新設計だったわけですねっ😺
幕府の船として初めて太平洋を往復したことで有名みたいっ
戊辰戦争が始まった頃には既に軍艦としての機能は他より劣っていたそうで
運送船としての役割を与えられていました
新政府軍に捕まり、明治政府に接収されたあと開拓使の輸送船として使われ
最後は1871年、更木岬にて暴風雨により破船、沈没したそうですっ🐟🐟🐟
末廣に模型が飾ってあります
巴川港橋傍の次郎長さんスポット【船宿記念館 末廣】さん入口すぐの場所に
咸臨丸の模型が飾られていますっ😺
今は大きな帆船を見る機会も少ないのですごく立派に見えますっ
思っているより大きいか小さいかはわからないけどっ😹
咸臨丸事件と清水
本題の咸臨丸事件は壮士墓の記事
で一通り紹介していますが
もう少し詳細にまとめてみましたっ😼
1868年 戊辰戦争勃発。先程の説明で、新政府軍に捕まった下りが咸臨丸事件ですっ🐟
8月19日 海軍副総裁榎本武揚の指揮のもと、咸臨丸は江戸から奥羽越列藩同盟の支援に向かいます。
8月23日 現在の千葉県銚子沖にて暴風雨に逢い、榎本艦隊から離脱。下田港に漂着しました。
救助に来た幕府の軍艦【蟠竜丸】と共に清水港へ入港しますが、修理が遅れ、蟠竜丸は先に出航します。
9月11日 咸臨丸は新政府軍に追いつかれ敗北。
白旗を上げ降伏しますが船に乗り込まれ斬り合いというか、一方的に皆殺しだったそうです。乗組員は斬り殺されたあと海に投げ落とされそのまま放置されました。
新政府軍は賊軍を弔う者はまた賊軍であると、埋葬どころか遺体の回収さえも罪として、住民は手を出すことが出来ず清水港は死臭が漂っていたそうです。
そこで清水次郎長は深夜に遺体を回収、清水市築地町の無縁墓地に埋葬しました。
当然罪に問われ役人の前に連れてこられますが「死ねば皆仏、仏に官軍も賊軍もない」と罰を恐れぬ人情を見せつけ、お咎め無しとなりました。
これに感銘したのは幕末の偉人で江戸城無血開城の立役者【山岡鉄舟】
整備した墓地に【壮士墓】の名を揮毫しました。
その後は次郎長と意気投合し、清水の発展の礎となった一人ですっ😺
1887年 次郎長が現在の清水区興津【清見寺】に咸臨丸乗組員殉難碑を建立しています。
明治維新150周年の清水港
明治150年のイベントは全国で行われていますが
清水港で行われたのは専らこの咸臨丸事件関連のみでしたっ😹
2018年9月には壮士墓で供養祭が行われ、
歴史小説家の植松三十里さんと、榎本艦隊の榎本武揚の子孫を招き、咸臨丸事件や次郎長さんの生涯を解説する記念公演が行われましたっ🐟🐟🐟
勝海舟の子孫であるフリーライターの高山みな子さんを交えたトークセッションなど、豪華メンバーで150週年と地元偉人の功績をたたえたとのことですっ😼
清水港の歴史的にも最重要な近代の出来事ですっ!
私達の世代では知らない方も多いので、後世にしっかり伝えていけるように発信していかなきゃですねっ😺💕