清水の次郎長について詳しくなれる記事、後編です!
清水港の擬人化ご当地キャラクター七海波音ですっ
前編では清水次郎長の生涯について長々と硬いノリで紹介しましたっ!
後半は近代になって次郎長が評価され、時代劇のヒーローとして人気になった過程と、前半でも幾つか紹介されていたと思いますが、現存する次郎長一家縁のスポットを紹介します!
東海遊侠伝から生まれた次郎長の物語
明治17年に「東海遊侠伝・一名次郎長物語」が出版され、次郎長の活躍は全国に広まっていきました、と言ってもここでいう活躍は、侠客時代の抗争や仁義の物語であって、前編の記事の後半で紹介した、清水の発展に尽くしたという意味での活躍はほとんど広まっていないのですが。
この東海遊侠伝を種本に、様々な物語が生まれていきます。今風に言えば二次創作、三次創作の世界ですね。昔の偉人を題材にではなく、少し前の時代のカッコイイ人物を題材にという辺りは今と少し風潮が違う気もしますが。
特に東海遊侠伝はノンフィクションではあるものの、博徒の一斉刈り込みにより収監された次郎長を出所させるための嘆願書として出版された面もあり、その目的上次郎長の功績を賞賛する内容、つまりはカッコイイ面に終始した内容になっており、実話でありながら物語の主人公として充分な現実離れした武勇伝に憧れる人も増えていったのでしょう。
といっても全国的にに広まった理由としては浪曲や講談、映画と、今で言うメディアミックスの力が強いです。
「荒神山の喧嘩」に同行し戦況を記録していた講釈師・松廼家太琉がその創作を発表しますが、世間からはあまり反応が無かったようで、講談師・三代目神田伯山に記録を託し、東海遊俠伝とあわせて題材とした講談『名も高き富士の山本』を作りました。
それが1907年5月に初演が現在の東京都墨田区にあった福本亭にて行われ、回を増すごとに評判が広がり、『清水次郎長伝』として大人気の講談になりました。
それまでも次郎長を題材にした講談自体は存在しましたが、どれも任侠抗争の血なまぐさい内容のものが多く、当時であっても人を選ぶものでしたが、『清水次郎長伝』では次郎長を義理と人情に厚い海道一の親分としてのカッコよさを謳い、任侠者でありながら正義のヒーローとしての像を作り上げました。
これが大受けし、その後のメディア展開へとつながっていきます。
ちなみにこのブログ【清水港は鬼より怖い】は清水次郎長伝でうたわれる【清水港は鬼より怖い 大政小政の声がする】から取っています。
大政小政のキャッチフレーズみたいなものですね。作中の登場人物は遊侠伝の実話を元にそのままの姿を語られている人物もおりますが、ストーリーを盛り上げるためのキャラ付けや、実際には存在しない物語のみの人物も多数登場します。
ノンフィクションから創作へ、創作から更なる創作へ、次郎長の物語は様々な形で語られていきました。
ラジオや映画で全国へ
1911年には初の映画化、しかしこの映画と清水次郎長伝との関係は不明だそうです。清水次郎長伝を元にした映画は1924年に公開されています。
また同年、売り出し中の浪曲師二代目広沢虎造によって、次郎長伝の浪曲がラジオで初放送され、一躍全国へと広まることとなりました。
広沢虎造のラジオは戦前戦後をまたいで昭和を代表する娯楽のひとつとまで評価され、ラジオでよく読まれる事となった次郎長についても、昭和を代表するキャラクターの一人となっていきます。
1935年ごろには郷土史家・堀文次が「荒神山の喧嘩」を中心に史実を探求し、新聞等で発表を始め、これをもとに新たに明らかになった史実を盛り込んだ次郎長作品が生まれていきました。
1952年に連載が始まった村上元三作の「次郎長三国志」もそのうちの一つで、広沢虎造の浪曲をベースにしているので、史実をもとにした講談をもとにした浪曲をもとにした小説と最早何次創作なのかわからないほどですが、これが大ヒット。
最初の連載は23回に渡って掲載され、単行本化、続編、続々偏、全15巻のシリーズなど幾度も書籍化され、平成になってからも新装版として書籍化されています。
大人気映画となるも
1952年12月から翌年1月にかけての正月映画として封切られた次郎長三国志の映画 第一作「次郎長三國志 次郎長賣出す』ならびに第二作『次郎長三国志 次郎長初旅』は低予算での作品でしたが、これも興行的に成功を収め、シリーズ化が決定。
すぐに続編が制作され、キャストにも当時の人気俳優が並ぶ、東宝の売り出し作品になりましたが、人気にあやかりすぎてあまりに短時間での制作が繰り返され、ついには連載中の原作を追い抜いてしまう勢いで制作側も商業的な東宝の注文に嫌気が差し、結局このシリーズ映画は1954年までの二年間で9作まで公開されましたが、未完のまま終わってしまいました。
近代に至るまで長らく映像ソフト化は行われませんでしたが、2011年にスタジオジブリの鈴木敏夫がワンピースで有名な漫画家尾田栄一郎と次郎長の話で意気投合し、鈴木敏夫は東宝の当時の社長にDVD化を直訴し、尾田栄一郎もそれに便乗。
DVDのジャケットイラストを尾田が手がけ、題字を鈴木が担当する全三集の豪華なDVDBOXが発売され話題を集めました。
昭和後期にはドラマ化も
このように、業界内での紆余曲折はあるものの、大衆に次郎長は広く受け入れられ、戦前戦後問わず庶民のヒーローとしてのキャラクターを欲しいがままにしてきました。1968年には次郎長三国志が、1971年には「清水次郎長」としてテレビドラマ化もされました。
この際のオープニングテーマソングが「男次郎長」と前半の冒頭で書いた「旅姿三人男」のカバーでした。「清水次郎長」は作風が任侠作品ではなく時代劇なのもあって、次郎長も争いを嫌う人格者寄りの人物として描かれ、登場人物も創作になっている部分が多いです。その分広くファンを獲得する作品にもなりました。
ドラマにも使われるようになった次郎長を詠う名曲は、1947年から毎年行われている清水みなと祭りの踊りで振り付けも行われ、現在までも次郎長道中の踊りとして文化を残しています。
以上、はっきりとどの作品でどれだけ人気になったとは書けませんでしたが、次郎長作品の歴史と大衆への広がりについて紹介しました。
ここからは、現存する清水にある次郎長関連のスポットを幾つか紹介していきます。前編の歴史で触れた場所ばかりですので、そちらと知った上で回ると感慨深いスポットかもしれません。
清水の次郎長スポット!
次郎長生家
清水区美濃輪町にある次郎長が生まれた家、育った米屋ではなく、生まれた家なのでそこまで次郎長にとっても愛着がある場所ではないかもしれませんが、次郎長を取り上げたと言われている井戸などが残っています。
建物は2017年に耐震工事のリノベーションを行ったものの、内装は当時の長屋をそのまま残しており、今では技術も失われてしまった清水瓦の屋根など、建物的な価値が非常に高くなっています。中では次郎長の活躍や生涯を紹介するパネルや、当時の家具などが展示されていて、意外と見るものは多いです。
船宿末広
晩年の次郎長が開いた船宿。末広は後に売却されてしまっている為、当時のまま残っているわけではなく、近年になって当時の木材が発見されたため、それを利用して完全再現した船宿記念館です。
次郎長についての展示もありますが、当時の船宿がどのようなものだったかを目で見て触れられる資料館としての活用が主になっており、雰囲気的に昔を感じられるということもあって、豪華客船入港時には着物や旅装束を着る体験やお茶の提供も行っている観光向けのスポットになっています。
現在の船宿記念館としての末広は地は当時の船宿末広と場所が違い、元末広があった場所には石碑が建てられています。
壮士墓
咸臨丸事件にて海に浮かんでいた旧幕府軍の死体を埋葬し、後に山岡鉄舟に寄って名がつけられた墓。墓地ではなく墓がひとつあり、周りに記念碑や壮士墓についての説明が立てられています。※壮士の墓と呼ばれていますが壮士墓が正解です。
梅蔭禅寺
次郎長、大政、小政、お蝶のお墓があるお寺。足利時代創建の古いお寺で、次郎長一家がふぐを振る舞われて散々な目にあった場所でもありますが、侠客としては全国で唯一となる次郎長の銅像が建てられていたり、他ではあまり語られない次郎長の生まれから晩年までの生涯をしっかり紹介する資料館があったりと、次郎長を一番に感じることができるスポットでもあります。