清水港の〜 名物は〜
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清水港の擬人化ご当地キャラクター七海波音ですっ
清水次郎長といえば、幕末の時代、海道一の大親分として名を馳せた次郎長一家の長、山本長五郎その人ですね!
冒頭の歌詞は次郎長一家の子分衆、小政・大政・森の石松を歌った【旅姿三人男】ですね。旅姿三人男は1938年に発売された曲ですが、清水次郎長はいつから人気だったのでしょう?
この記事では前編・後編の2回に分けて、清水次郎長はどんな人で、何故現代でも人気・知名度を集めるのかを紹介していきます。前編は次郎長の生涯を詳しくまとめました。
次郎長の生い立ち
文政3年(1820年)1月1日、駿河国有度郡清水町美濃輪の薪を売る船乗りの次男として生まれ、長五郎と名付けられます。元旦生まれは厄災を連れてくると言われていたこともあってか、すぐ子供の居なかった母方の叔父である米穀商「甲田屋」の次郎八の養子となりました。次郎八のうちの長男ということで、周りに次郎長と呼ばれていました。
9歳の頃には寺子屋で読み書きを学びますが、いたずらや喧嘩が多く退塾させられます。町内でも有名な暴れん坊だった次郎長は、翌年その粗暴な性格を治すため、由比倉沢の叔父のもとに預けられます。
5年後、15歳となった次郎長は性格も落ち着き、甲田屋に戻りますが、江戸に行こうとして許されなかったことをきっかけに、店の金百両を持って家出、家長次郎八に勘当され江戸に向かいますが、江戸へ辿り着く前の道中でいざこざが有り浜松へ、この時点で商売の才能に目覚めていた次郎長は、浜松の米相場で商売に大成功し、その年のうちに清水へ戻り知り合いを驚かせたそうです。
翌年、養父の次郎八が死亡。次郎長は米屋の家業に精を出します。しかし二年後、養母が愛人と財産を持って蒸発。次郎長は結婚し、家業の回復に勤めました。さらに二年後、店の前で具合を悪そうにしていた旅の僧を介抱し店に泊めると、次郎長の人相を見て25歳までの命と予言をします。
予言を聞いた次郎長は、太く短く生きようと博徒の生き方を志すようになり、賭場への出入りを始めます。22歳の頃、甲田屋に4人組の強盗が入り、次郎長は四人を追って重症を負います。悲運が重なったことでますます賭場への出入りが激しくなった次郎長は、翌年博打のもつれから巴川湖畔で人を斬ってしまい、妻とは離婚、甲田屋を姉夫婦に譲り、清水を後にします。
アウトローな時代
三河の寺津に向かった次郎長は、侠客の親分の元に身を寄せ、武人に剣術を学びながら、自身も旅人として侠客の道へと進んでいきます。当時の旅人というものは、土地土地の親分の元を訪ね仁義を切る(当時の旅人の自己紹介の習わし)ことで、一宿一飯の恩を受け、草鞋銭(わらじせん 少しのお金)を貰い、また次の親分の元へと渡り歩くことで、旅を続けることができたそうです。
ただし仁義の世界は厳しく、所作に間違いがあると驕りとみなされ、殺されてもおかしくなかったともいわれています。
旅を続け26歳になった次郎長は遠州川崎での争いごとから負傷、傷を直して清水に帰ります。その後、名のある侠客、津向の文吉と和田島の文左衛門の庵原川での争いを仲裁したことで次郎長の侠客としての名声が高まりました。侠客の世界は自身に力や財力があることよりも、力のある者、名のある者同士の争いを仲裁することで、より名を上げることに繋がったそうです。ちなみに25歳までの寿命とは何だったのかというくらい、怪我はあっても病気のない健康な生活を送っていたといいます。
28歳になった次郎長は、親友の娘おちょうと結婚、清水の仲町妙慶寺の前に家を建て所帯を持ちます。子分ら10名あまりを住まわせていた為、家計は苦しかったそうです。
激動の幕末 博徒間抗争
次郎長39歳、安政の大獄が開始された年、甲州での出入りで役人に追われ、捕捉を逃れる為子分たちを連れて名古屋の長兵衛の元へ向かい、滞在します。その年の12月、おちょうは病気のため亡くなってしまいます。翌年、信用していた久六に裏切られ、長兵衛が捕らえられ牢死すると、次郎長はそれを逃れて寺津へ向かいます。
久六を待ち伏せし斬り、長兵衛の無念を晴らしますが、その後も捕吏の捜索が厳しく、子分集を連れて甲州、越後、加賀、越前、四国までの長い逃避行を繰り広げました。
翌年、子分の石松が四国の金毘羅神社に礼参りに向かった帰路、都田吉兵衛兄弟に二五両をだまし取られた上、斬殺されてしまいます。
清水に戻った次郎長一家ですが、お寺の住職にふるまわれた河豚が当たり、多くの子分が倒れ、一部の子分は亡くなってしまいます。フグ毒に倒れた次郎長一家の話を聞いた都田兄弟は、石松斬殺の報復を恐れていましたが、今が好機と次郎長一家への襲撃を企てますが、清水へ向かう旅すがら、追分で昼食を取っているところを大政らが襲い、兄弟を打ち取り石松の無念を晴らしました。
次郎長47歳の年、伊勢の博徒である神戸長吉と穴太徳の間に縄張り争いが起き、荒神山にて激突。清水からも神戸側へ22名の助っ人が向かいました。助っ人であった吉良の仁吉の死の報に兄弟分の清水次郎長が東海道の博徒480余名を動員。伊勢の神社湾に船を乗りつけ、穴太徳と後盾である伊勢古市の丹波屋伝兵衛に決戦を挑みましたが両者とも謝罪したため和議を行いました。
明治維新の活躍と晩年の次郎長
明治一年、次郎長49歳。駿府町奉行廃され、駿府町差配役となった伏谷如水によって次郎長は街道警固を命じられ、積年の罪科を免ぜられ帯刀を許される。この年の9月、幕府の軍艦咸臨丸が清水港内で官軍に攻撃され、船上員の幕軍の死体が港に浮遊、新政府からは賊軍に触れたものは賊軍とみなすとお触れが出され、腐敗臭漂う港に住民も困り果てていたが、次郎長は「仏に敵も味方もない」と罰を恐れず死体を収容し手厚く葬った(咸臨丸事件)。次郎長の行いに感心した山岡鉄舟によって、翌年「壮士墓」の墓碑銘が掘られました。
明治二年12月、廻船問屋松本屋の奥座敷で次郎長は新門辰五郎と会い、徳川慶喜護衛役を依頼される。護衛を引き受けた次郎長は慶喜とも仲がよく、投網漁が好きだという慶喜を連れ出して清水港を遊び歩いた話も伝わっています。
明治7年、次郎長55歳。清水の向島の囚人を使役し、富士裾野の開梱を始める。翌年、向島に波止場の建設をはじめ、清水港は巴川の河口港から外海港へと進化。次郎長は廻船問屋経営者たちに、蒸汽船による横浜港との定期航路開設を提案します。
次郎長は頻繁に横浜に行き、横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結びつけます。この頃「これからの若い者は英語を知らなきゃだめだ」と、幕臣新井幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使い、青年を集め英語塾を開設しました。
明治11年の11月、戊辰戦争で行方不明となった父母の行方を尋ねる天田五郎が山岡鉄舟に連れられ次郎長の元へ訪れます。
天田五郎は次郎長の家にお世話になり、次郎長の武勇伝を聞きながらノンフィクション次郎長一家の物語「東海遊侠伝」を執筆。この作品がその後の次郎長を扱う作品すべての元となりました。次郎長はお礼に全国の親分らに手紙を出し、五郎の父母の探索を支援しました。
明治13年、横浜の輸出商、静岡の茶商、清水港の廻船問屋の三者の共同出資を取り付け、静隆社を設立。静岡丸、三保丸が帆航し、次郎長は会社設立に尽力し茶の港清水の基礎を築きあげました。翌年天田五郎が再び次郎長の元を訪れ、養子となります。その後も執筆していた次郎長の物語を「東海遊侠伝・一名次郎長物語」として東京神田の出版社から出版します。
明治17年、次郎長65歳。博徒の一斉刈り込みにより、監獄へ収監され、懲役7年、罰金四百円の刑を受けましたが、翌年には特赦放免となります。
明治19年、向島波止場に船宿「末廣」を開業、数多くの著名人が訪れました。波止場の好好爺として近隣の人々にも親しまれ、明治26年6月12日、74歳でその生涯を閉じますが、梅陰禅寺で行われた葬儀には3000名を超える参列者がいたと言われています。
以上が次郎長の生涯になります。後編では次郎長の死後、数々の物語として任侠ヒーローとしての人気を獲得していく過程と、現存する次郎長に纏わるスポットを紹介いたします。
→後編