清水港の擬人化ご当地キャラクター七海波音ですっ
静岡出身の有名人はたくさんいますが、
私の尊敬する人は清水次郎長親分と今回紹介する「山田長政」!
静岡市内の浅間通りでは毎年お祭りも開催されていますっ🐟✨
一体何がすごいのか?検証していきます!!
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日本人なのにタイで王になった
細かい出自などは後ほどとして、まずこれ↑ですよ🐟
このパワーワードだけで普通じゃないことがわかりますよねっ!
そんなに歴史に詳しいわけでは無いので私が知らないだけだと思いますが、
こんな人他にいるの!?と思います😸www
しかも、末端の身分の武士から王です!
どんなサクセスストーリーなのか一緒に見ていきましょうっ!
江戸時代の静岡人(武士)
「山田仁左衛門長政」は、天正18年(1590)年ごろに駿府馬場町の紺屋津国屋に生まれました🐟
子供の時から元気いっぱいで、軍(いくさ)遊びばかりしていたそうです😸
みんな一度は、かめはめ波や霊丸で戦いますよね!それみたいな感じですね多分。
沼津藩の大久保忠佐に仕えて、駕籠舁(かごかき:将軍家の乗物を担ぐ人)をしていました。武士の身分ではあったわけですが、江戸のこの年代ということは徳川家康公の治める天下泰平の時代だったわけですね!😸
しかし、泰平の時代に武士が戦で活躍できるチャンスはあまり無いわけで、
出世できずに末端の武士でした。。。
海外ならいけるんじゃないの?
ここが目の付け所が違いますよね!😸
なんと長政さん、活躍するチャンスを見つけに、
1612年(家康公が大御所として駿府城に在城していた頃)
長崎から台湾経由で朱印船に乗ってシャム(現タイ)へ行っちゃいます⚓
全然関係ないけどシャム猫飼いたい😸
しかしなんという行動力🐟✨
人生をかけるとはまさにこのことですね!
わたしたちのこの飛行機で6時間半でタイに行ける時代でも、
行くだけで「海外行くなんてすごいね!」と言われるのに
400年以上も前に船で行くなんて、それこそすごいことですよね😸
ついに念願の戦で功績をあげる
シャムの当時の国際都市と言えば、現在は遺跡で有名なアユタヤでした🐟
そんなアユタヤに長政はとりま行ってみます。
当時のシャムはビルマ(現ミャンマー)との戦争真っ最中で、
勝利の要は、戦国の世を生き抜いた日本人の傭兵部隊だったんですね〜!
戦で功績を上げたかった長政は当然そこに加わります🔥
そしてvsビルマ戦はもちろんのこと、王になるきっかけがアユタヤ港に攻めてきたスペイン艦隊を2度も撃退します🔥強すぎぃ・・・!😸
やはり子供の頃から軍遊びをしてきてたし、もうタイに行ってまで武士として功績を挙げたい覚悟が違うわけですから、日本で武将になってなくても才能の塊だったんでしょうね。
そしてその功績から日本人傭兵隊の指揮を任され、当時のアユタヤ王朝の王ソンタムから重用されます。
商売人の才能もあったのかも
長政は傭兵としてだけではなく、貿易商としても活躍します🐟✨
その才能はまた凄まじく、各国との経済戦争に勝利してアユタヤでの貿易を一手に引受け、当時世界最大の貿易会社「東インド会社」を撤退させるほどの能力でした🔥
繰り返しますがこの人、静岡人ですからね!?タイ人ではないんですよ😸www
仁左衛門、結婚するってよ
これだけ様々な功績を残すと、もはや日本人町の頭領に当然なります🐟
ソンタム王から絶大な信頼を得た長政は、国位第3位の官位・欽賜名を授かり、チャオプラヤー川に入る船から税を得る権利までもらっちゃいます!
そして、シャムの王女と結婚・・・!🐟💖
なんという逆玉・・・!
ちなみに当時の日本人町はバンコクからチャオプラヤ川を真北に70km上流の東岸に存在し、アユタヤ王都の入り口にあたる地域に広大な面積を持ち、まさにアユタヤ王都を守る位置にあったそうです😸
日本とタイの国交に尽力
シャム国内で権力を持った長政は、それを我が物のように振るうでもなく、
生まれ育った日本とのために力を使います🐟
老中・土井利勝&本多正純を通して、尽力してくれました😸
そのおかげで今も日泰は本当に仲がいいんですね!
わたしが毎年タイの展示会に出展するときも、出展者がたくさんいるところで、
タイの人に「日本人の皆さん、山田長政って知ってますか?」
と誇らしげに今書いてきたような内容を語ってくれるタイ人の方もいます😸
山田長政が、スペインから私達の国を守ってくれたんだよって。
わたしは尊敬しているので当然知っていますが、多くの日本人は知らないことが少し悲しいですね・・・💦
長政、ついに王へ
どこの国でもいつの世も、王の後継者争いに陰謀渦巻く世界はあるものです。。。
長政は後のプーラーサート・トーン王になる宮内長官のシーウォラウォンという人と協力して、跡継ぎを決めないまま崩御してしまったソンタム王の子ども、チェーター親王を王位に就かせます🐟
しかし!協力していたはずのシーウォラウォンはここで長政が邪魔になり、排除しようとしてアユタヤからめちゃくちゃ離れた南にある、リゴールという王国の内乱を鎮めるためにトバします😿
リゴールに行った長政は、またもや凄さを発揮して無事に内乱を平定します。
そして!長政はそのままリゴールの防衛を理由にリゴール王に任ぜられたのです🐟
とは言え、当時の長政の地位は、とりあえずでも王にしとかないといけないレベルにすごかったということがわかります・・・!
最後は毒で暗殺
王となったのも束の間のことでした・・・!
なんと長政をリゴールに飛ばしたシーウォラウォンはチェーター王を殺害し国王に。
ほほ笑みの国タイでも権力争いはありますね。。。
自分もチェーター王を王位に就かせるため頑張ったわけですから、これを聞いて長政はシーウォラウォンの暴走を止めるためにアユタヤへとすぐに向かいます🔥
しかし、その際に隣国のパタニ軍が侵攻してきて、また戦になります😿
パタニ軍との戦で脚を負傷した長政は、傷薬として軟膏を塗ります。
ただそれが運の尽きでした。。。
その軟膏には毒が含まれており、その毒が原因で41歳で亡くなってしまいます。
この毒を指示したのはオランダの史料によれば、またでたシーウォラウォンです!!👿
さらにシーウォラウォンは「日本人は反乱の可能性があるぞ!焼き討ちしろ!!🔥」
と、アユタヤ日本人町を焼き尽くし、廃墟になりました。。。
こいつぁとんでもない悪人ですね!!
長政の死後
すごい人生を送った山田長政でした。
何より、大好きな日本とタイのために尽力したことが個人的にはすごいなぁと思いますっ!🐟✨
だって、この人いなかったらタイって多分世界で一番親日国じゃないと思うんですよね😸💦
ASEANで最初の神社が建つ
アユタヤの日本人町はシーウォラウォンに焼き滅ぼされましたが、
昭和8年に発掘調査がされ、ここで日本刀などの武具が発見されています🐟
その2年後、昭和10年に設立された泰日協会は、遺跡保全のために12000平米を土地購入し、旧日本海軍練習艦隊がさらに3年後の昭和13年にここに「山田長政神社」を建立します😸
これはASEAN(東南アジア諸国連合)では初めて建った日本神社となります!
さすがわたしたちの長政!すごい!!
メディア化する長政
長政を主人公にした小説やドラマ、舞台、映画、郷土唱歌など、
その凄さを伝えるために色々メディア展開する長政さん。
静岡県の郷土唱歌集には「山田長政」という歌があったり、
戯曲「メナム河の日本人」(こちらは静岡県の劇団SPACさんが今度公演もするので後日別途記事にしますね)、小説「王国への道−山田長政」、
そしてタイでは「YAMADA THE SAMURAI OF AYOTHAYA」なる2010年に公開された映画もあります!🐟✨
長政の地元静岡市内では
当然故郷の静岡人たちもその凄さをリスペクトしています!
山田長政の産土神は静岡の浅間神社です🐟✨
長政が諸願成就を感謝して奉納した絵馬は、浅間神社の社宝となっています😸
(正確には1788年の火災で消失しているものの、模写で残っていたものを奉納してあります)
そして浅間通り商店街には様々な長政リスペクトを感じることができます!
長政掲示板もあります😸 w
この浅間通り商店街では、昭和61年から毎年、日タイ友好「長政まつり」を開催しており、タイからもゲストが来ています😸
タイの人々を引き連れて象に乗った長政が、故郷の静岡人たちと一緒に浅間神社へ絵馬を奉納しに向かいます🐟
長政の精神を受け継いで、タイとの末永い友好を記念した、きっと長政が夢に描いたような、素敵なパレードです😸💖
ぜひこの記事を読んだそこのあなた!あなた!あなた!
全国から静岡の浅間通り商店街にいらしてくださいねっ🐟✨
わたしも浅間通り界隈の人の目に止まって等身大パネルくらいあるかもしれませんよ?(今の所ノーオファーなのでお待ちしてますwww)
ちなみに長政を供養するお寺として、静岡大学の近く(静岡市駿河区大谷5105)には西敬寺(さいきょうじ)があります😸
そして清水にも・・・!
清水港近くにもこんな石版があります🐟✨
これは逆に浅間通り商店街の地面にわたしの石版でも作られる可能性もゼロじゃないのでは・・・!
清水次郎長さんも長政リスペクト
さて、わたしが最も尊敬する義理と人情の大親分、清水次郎長さんも長政を尊敬していました。
そのリスペクトっぷりは半端ではなく、「郷土の英雄・山田長政をもっと尊敬しよう!そうだ!銅像か碑を建てるぞ!!」
っと何とか顕彰しようと次郎長さんなりに考えて、自ら動き回ります🐟✨
そのために上京して時の外務大臣・榎本武揚に会ってプレゼンし、扇や金一封を寄贈されます。また、駿府城本丸跡地にて、さらに資金集めのために大相撲の興行やっちゃおう!と企画して、これまた東京相撲の高砂・雷の両取締と掛け合い、これまた交渉成立させ、明治25年7月25日に静岡で大相撲の興行をし、大成功させます😸
ただ、これはお相撲さんの一行を東京から呼び寄せたため莫大な経費がかかり、結果的には銅像や碑を建てるまでのお金は足りませんでした。。。
そこでさらに色んな所から寄付金を集めようとしていましたが、翌年1893年に次郎長さんが亡くなったのでこのプロジェクトは一旦挫折。。。
その後は昭和7年にコンクリートの甲冑姿の山田長政像が大浜海岸の公園前に一度は建立されます。
ただこれも戦後ついにアメリカ軍が静岡へもやってくるという前夜に何者かによって跡形もなく取り除かれたとか😿
現在は先程も出た浅間通り商店街にて長政像を見れるので、次郎長さん好きの人も、次郎長さんの想いもきっと乗っかっている長政像をぜひ見に行きましょうっ!